【原文】
三月ばかり、ここに渡りたるほどにしも苦しがりそめて、いとわりなう苦しと思ひまどふを、いといみじと見る。言ふことは、「ここにぞいとあらまほしきを、なにごともせむに、いと便なかるべければ、かしこへものしなむ。つらしとな思しそ。にはかにもいくばくもあらぬ心地なむするなむ、いとわりなき。あはれ、死ぬとも思し出づべきことのなきなむ、いと悲しかりける」とて泣くを見るに、ものおぼえずなりて、またいみじう泣かるれば、「な泣き給ひそ。苦しさまさる。よにいみじかるべきわざは、心はからぬほどに、かかる別れせむなむありける。いかにし給はむずらむ。ひとりはよにおはせじな。さりとも、おのが忌みのうちにし給ふな。もし死なずはありとも、かぎりと思ふなり。ありとも、こちはえ参るまじ。おのがさかしからむときこそ、いかでもいかでもものし給はめと思へば。かくて死なば、これこそは見奉るべきかぎりなめれ」など、臥しながらいみじう語らひて泣く。これかれある人々、呼び寄せつつ、「ここにはいかに思ひ聞こえたりとか見る。かくて死なば、また対面せでややみなむと思ふこそいみじけれ」と言へば、みな泣きぬ。みづからは、ましてものだに言はれず、ただ泣きにのみ泣く。
(『蜻蛉日記』)
【訳】
三月頃、兼家様はここにいらっしゃった時に限って苦しがり始めて、「とても耐えがたく苦しい」とひどく思っているのを、たいそう大変なことだと思って見る。
彼が「あなたの家にこそいたいのだけれど、何事をしようとしても都合が悪いので、本邸へ行こうと思う。私を薄情だとお思いなさるな。急に命がそれほどの時間も持たないような気持ちがするのだ、仕方がない。ああ、私が死んでも、あなたが私を思い出すことがないはずであることは、大変悲しい」と言って泣くのを見ているうちに、
私は意識も霞んできてまた泣き出すと、
彼は「お泣きなさるな。あなたが泣くと一層苦しくなる。実にひどいことは、予期しないうちに夫婦がこのような死別という別れをすることがあったことだ。あなたはどうするのだろう。一人では浮世にお在りにはなれないでしょう。そうは言っても、私の忌中には再婚しなさるな。もし死ななかったとしても、これが最後だと思っている。生きていても、こちらに来ることが出来るはずもないだろう。私がしっかりしているうちは、なんとしてでもあなたは私をお頼りになるのがよいと思うが、この病気ではそれも難しくなるだろうと思われるので、これが最後なのだ。こうしてこのまま死んだら、これが御覧になる最後の機会であるようだ」
などと、横になりながら甚だしく話を交わして泣く。
兼家様は、傍にいる女房達を呼び寄せながら
「私が彼女をどんなに愛しもうしあげていたことかあなた達には分かるだろうか。こうして死んだら、また会うことも出来ないで終わってしまうと思うことがひどく悲しい」
と言うので、女房達も皆泣いてしまった。
私は、ましてものを言うことさえ出来ずに、ただ泣きに泣いている。
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